干支の置物作り(辰)その1 [手作り工房]
とうとう、この日が来てしまった。
あれは亥年・・・・。
それまでは干支の置物を探して買ってきては飾っていたのだが、イノシシが見当たらず、それ以降「じゃぁ自分で作ろう」と年1回の製作活動が始まった。
これまで
亥/子/丑/寅/卯と続いている。
だいたい、似たような感じの皆様で、製作についてはなんとか出来ていたのだが・・・。
しかしこの行事をスタートさせて以降、きっと「辰」がひとつの山になるのではないかと、毎年思っていた。
そう、とうとう辰年である・・・。
辰、つまり龍なのであるが、想像上の動物であり、見た感じも、まぁ難しそうである。さてどうしたものか・・・。
2024年展望 [楽しみ(雑感)・執筆・連絡]
2024がスタートした。
2022年の年末にオヤジが逝き、そして2023年がスタート、そして続いて岳父も逝き・・・・。そんな年であった2023年。
そして2024年がスタートした。
今年2月には「知命」となる。つまり天命を知るのだそうだ。40にして惑わなかったか?と言えばそうではなかったし、たぶん50になったからと言って自動的にわかるもんじゃないというのくらいはわかっている。
ま、しかしオヤジ達が70歳代で、この世を去ったわけで、否応なしに、残りの時間を考えてしまうのは致し方ない。
20年。
引き算では20年となるのだろうが、健康で、活動してとなれば、それよりももっと短く、まぁ10年かなぁ・・・。
さてその10年、どう生きるか。
私は高校時代「倫理政経」という社会化の科目を選択し、そしてそれが大好きであった。まぁその程度のことなんだが、学んだ中で、印象に強く残り、よく頭に浮かぶ言葉が、次の言葉である。
我思う、故に我在り(ウィキペディアより)
全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum。カール・マルクスの言葉)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。コギト命題といわれることもある。哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。
だと。
合っているか否か、わからないのだが、「そっからはじめよう」というのが、この考え方ではないかと、昔から思っていた。
そこにきて「知命」。天命を知るということなのだが、もう1ヶ月以上もあるが、今の時点でどんだけ「知っているか?」と問われれば、「わからん」というしかない。
けど・・・・。
人生残りわずかでもあり、ここら辺で、一旦線を引かなければならないのかなぁと思っているのも事実である。
言ってしまえば、わからんことだらけ、まだまだ知らねばならぬ事、やらねばならぬ事は多いのだろう。
しかし・・・
人生残りわずか。
知ることや挑戦することはやめないけれど、50歳にて「リスタート」ということか。
自分に問うて、天命を知るのだろう、きっと。ま、思い込みに近いのだろうけど。
おもしろいのが、次の60歳。
「六十にして耳順う」という言葉は、60歳くらいになると、他人の言葉を素直に聞き入れることができるようになることを意味します 。 のだそうだ。
天命だと思い込み、再スタート切るけど、60歳にして、やっと周りの言葉を聞き入れることができるのだと。
これは、この年になると、そうなる傾向にあるという見方も出来るし、そうあるべきだとのアドバイスかもしれない。
最近、天命とは思わずに、独りよがり、自分が正しいなどと思う傾向にあったのであろうかと反省もする。天命と使命感を持って、やれば、まだであるが、それもなく、我を通すので、目も当てられない。
思考の硬直化は、最近よくよく感じている。いかん、いかん。
天命ということで、これまでの生き方をふるいに掛け、今一度自分の御旗を染め上げ、そしてそれを大いに振りながらなのだろうか?
一瞬、「進む」と書きそうになったが、それもなんだかしっくりこないしなぁと思う。
60歳には10年あるわけだが、この10年で「他人の言葉を素直に聞き入れること」が出来るように振る舞っていきたい。なのでしっかり、自分の天命を知り、残りの人生を生きていきたいと思う。
生きる、そして活きる。
これが2024年のキーワードかもしれない。
生命として生き、そして周りとともに、自分も周りも活かすことができれば。
よい1年でありますように。